2016年8月1日月曜日

『赦しが幸せへの鍵である』

奇跡講座 ワークブック編
レッスン122より抜粋

4.
赦そうとしない心は間違いを見ず、罪だけを見る。

それは見えぬ目で世界を眺め、自分自身による投影が浮かび上がり、自分という哀れな生命(いのち)の真似事(パロディー)を攻撃するのを見て、悲鳴を上げる。

生きたいと思いながらも、死んだほうがよいと願う。

赦しを欲しているが、その望みはないと見ている。

逃げ去りたいのに、あらゆるところに罪人を見ているので、逃げるすべもない。

5.
赦そうとしない心は絶望しており、さらなる絶望以外の何かをもたらす未来の見通しをもたない。

それなのに、自分がこの世界に下した裁きは覆せないものと見なしており、自分で自分をこの絶望に追い込んだということがわからない。

自分の目に見えているものがすべて、その裁きが正しいことを証言するので、自分が変わることはできないと考える。

自分は知っていると思っているので、尋ねることはしない。

自分が正しいと思っているので、疑問をもたない。

(中略)

9.
赦そうとしない心は、与えることと受けとることが同じであることを信じない。

それでも私たちは今日、あなたが敵だと思っている人と友だと見なしている人に対する赦しの練習を通して、与えることと受け取ることがひとつであることを学ぼうと努める。

そして、その両方を同じものと見ることができるようになるにつれ、あなたはこのレッスンをあなた自身にまであてはめるようになり、彼らの脱出にはあなたの脱出も含まれていたことがわかるようになるだろう。

2016年6月14日火曜日

定義づけ(信念)

世界が教えることは、このようなことです。

「結局は完璧な人はいないので、たとえ最良の人間関係であっても、良いこともあれば悪いこともある」。

この世界では、完璧に見えるものは、錯覚です。

完璧な人も、完璧な家族も、完璧な結婚も、完璧な人間関係も存在しないからです。

でも、つながりの足りなさというところへ深く入り込むと、人間関係の定義こそが問題だということが見え始めてきます。

つまり、間違った人間関係の概念です。

それが、本当の人間関係を自覚することを妨げています。

この世界における人間関係には、個人的な心、思い、身体、必要性、欲求、興味など、個人の概念が含まれていて、ゆえに、欠如のレンズを通して、人間関係をとらえるのです。

必要なものを得るため、お互いに心理的、感覚的な満足を与え合うため、依存し合うため、というように。

『覚醒へのレッスン』P340より


自分の中の定義づけ。
どんな定義があるから、怒りに駆り立てられるのか。

2016年6月13日月曜日

「原因や理由、目的や意味がなければならない。」

両親からも受け継いでいる強固な信念。

返報性や自由さ(自分の行動のレベルだけでなく、人としてあふれでるものとしても)とも関係する。

人生、仕事、人間関係、お金の使い道。

両親を見て、その生き方、考え方、在り方は本当に嫌だと思ったはずなのに、結局同じ生き方を選択してしまっている。

なにかに時間やお金を使うことには意味と結果がなければならないという生き方。

旅行でも物を購入することでも何かに参加することでも人と会うことでも。

失敗があってはいけない。

そもそも意味はないのに、人生に意味を見いだせず、仕事も向かないと感じ、前向きに責任をもって能動的に生きられないループに入ってしまう中で、目に見えないものや一見すると結果が見えない(あるいは自分が求めているものと相いれない)ものに喜んで時間やお金を使えなくなっている自分がいた。

あらゆることにおいて、意味や目的や理由が必要で、それらがあるべきだと信じ、選択し、疑えず、要求してしまっている自分がいた。

その信念は色んな人の誠意を踏みにじり、傷つけたとも思う。

目の前にあふれ、自分の周りにあふれている宝物に気づけない、そんな風になってしまった自分がとても悲しい。

自我としては少しずつでも積み上げてきたと思ってきたものを、もう一度全部捨て、ゼロからスタートしなければいけないようだ。

すごく恐くて、できるかもわからないけれど。

そして、コースを含めて様々な人が表現する非二元というものと、今を生きるということも混同してしまっている自分もいる。

これを超えられるだろうか。

2016年6月1日水曜日

レッスンで陥りがちな自我

いまだに白黒思考、0か100かでグラデーションができないわたし。

レッスンにおいても、仕事が立て込んだりしてレッスンのスケジュールを守れないと、もう今日はダメだったと途中で放棄してしまうことがしばしばだった。

今日はそんな自我までお見通しの言葉にはっとさせられた。

奇跡講座ワークブック編レッスン95より抜粋。

私たちはしばらくの間、毎時五分間の練習を続け、できるだけそれを怠らないようにしなけらばならない。

一時間ごとにはじめの五分間を使うことは堅固な枠組みとなるので、特に役立つだろう。

しかしこのスケジュールを守れなかったときでも、それを口実にして、なるたけ早く練習に戻ることをやめてしまってはいけない。

おそらく、もはや要求されたことに応えられなかったという理由で、その日の練習は失敗したと見なしたい誘惑にかられるだろう。

だがこれも、ただその正体を認識することが必要なだけである。

すなわち、それは自分の誤りが正されることに対する拒否反応であり、再び練習に取り組みたくはないという気持ちである。

あなたの間違いによって、聖霊の指導に遅延が生じることはない。

聖霊を妨げるのは、誤りを放棄したくないというあなたの気持ちだけである。

したがって、特にこの一~二週間は、私たちの勤勉さが減退したり、毎日の主題概念の練習のための指示に従うことに失敗したりしても、そういう自分を喜んで赦そうと決めておきなさい。

このように弱さに寛容になることによって、私たちはそれを看過できるようになり、私たちの学びを遅らせる力を弱さに与えずにすむ。

もし私たちが弱さにそうした力を与えるなら、私たちはそれを強さと見なし、強さと弱さを混同していることになる

今夜はとても疲れた。

どこでも人との関わり、コミュニケーションが求められるのに、どうにもこうにもうまくいかない。

本当にコミュニケーション能力ゼロで、自分に対して嘲笑しかない。

お酒を飲むと、少しだけ気持ちがでてきて、甘みがあまりないハイボールにはまった。

酔っぱらってるかも。

でもでも、今日は色々あったけれど、『私は自分の本性と、私たち二人を一なるものとして愛する神の本性のゆえに、あなたを尊重する。』という最後の言葉、本当に本当に好きなのだ。

2016年5月29日日曜日

孤独感

おかしな表現だけれど、ずっと孤独で死にそうだった。

職場でも家族の中でもプライベートでも、これまで築いてきたあらゆる関係においても、どこにも居場所がなく、この世界でひとりぼっちだという知覚からぬけだせない。

酔っぱらって完全に我を忘れてしまわなければやってらいれないほどに。

カフェでデイヴィッドのこの箇所にきたら、本当にもうどうしようもなく涙が止まらなかった。

これからも助けになるだろう。

『覚醒へのレッスン』
P261-263
60. 死への願望を永遠に手放す

2016年4月30日土曜日

テキスト 第17章Ⅳより

8.
自分では理解していないものを、喜んで受け入れなさい。

その関係の目的がその中で働いてそれを神聖なものとしていく様を知覚することで、それがあなたに自ずと説明されていくに任せなさい。

その関係の「失敗」を兄弟のせいにして責めたくなる機会をあなたは何度も見出すだろう。

なぜなら、その関係は時として、何の目的もないように見えるからである。

目的がなくなったような感覚があなたにつきまとい、自分がかつて満足を追求し、満足を見出したと思ったときのことをすべて思い出させるだろう。

そのときにあなたが見つけたのは本当は惨めさだったことを、今になって、忘れてはならない。

そして、衰えつつある自我に生気を吹き込んではならない。

あなたの関係は引き裂かれたのではない。

それは救われたのである。

Ⅳ「赦しと神聖な関係」より

2016年4月27日水曜日

ひとつの転機が訪れている気がして仕方がない。

具体的に何かが始動しているわけでもなく、目に見える形で変化があるわけでもないけれど。

仕事において、少し前よりも自由に要領よくこなせるようになったり、凝り固まった感じでなくコミュニケーションをとることも少しずつできるようになった。

それと同時に、今の仕事や職場がとても退屈に感じてしまったり、枠組みに収まらない自分がいて、奔放に飛び出したりチャレンジしたくて仕方がない感じがつづいている。

毎日嫌だと感じたり、面倒くさかったり、一日中イライラしている日ももちろんあるけれど。

こんな自分の気持ちを持てあましていて、恐くて不安で、でも、恐怖や不安を超えてしまう何かもあって。

もうどうしていいのかわからない。